ヒロシマと私 🕊️(富岡徹郎 財団委員会委員長)

2024年のノーベル平和賞が、日本原水爆被害者団体協議会に贈られることが決定しました。

「ヒバクシャ(被爆者)としても知られる広島、長崎の原爆生存者による草の根運動であり、核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が二度と使われてはならないことを目撃証言を通じて示してきたことが授賞理由だ。」と10月11日の日経に記されています。今回の受賞は、自分事としても大変嬉しいことです。

この受賞を記念して、ヒロシマと自分の関係、平和と自分の関係をここに記録しておきたいと思います。私の祖父母、叔母は、1945年8月に広島で暮らしていました。その日の事は、祖母から何度も何度も子供の時に聞きました。8月6日の朝、家族はみな爆心地から約1.8キロ北の横川という駅のそばの家にいて、朝のひと時を過ごしていました。祖父を会社の同僚が迎えに来ましたが、今日は自分は呉に出張に行くと伝え、いつもより遅く家を出るつもりでした。叔母は、爆心地の近くの工場で働いていましたがその日は初めてのお休みの日でした。

その時に、閃光が走り大爆音がして、世界がひっくり返りました。幸い横にあった小学校が盾となり、家は爆風から守られましたが、街に出ると火は燃え広がり、大勢の死体を見たそうです。布団をかぶり、必死に川の方へ逃げました。しばらくすると黒い雨が降ってきたそうです。友人や同僚をほとんど失い、家財も失い呆然として迎えた終戦でした。

その後、東京で学んでいた父が、焼け野原となった広島で奇跡的な家族との再会を果たします。それから、家族そろって東京・武蔵野に移り住み、自分が生まれます。

子供の頃に聞いた話だけでは、分からなかったことですが、大人になり広島を訪れ、原爆資料館や、祖父母の暮らした街、逃げた経路などをたどることで、今現代が平和な時代、少なくとも80年間核戦争が起こっていない世界に感謝したいと思います。今回のノーベル平和賞の受賞は、亡くなられた方を含めて、すべての被爆者、その家族にとって喜ばしい知らせですが、反対に核の脅威が強まっている時代への警鐘ともいえます。実際ロシアは、ウクライナとの間で、大規模なミサイル攻撃があれば、戦術核兵器を使うと宣言しています。

今、勤務している国際基督教大学(ICU)の誕生も、ヒロシマ、ナガサキの犠牲者への哀悼からはじまりました。平和を希求する若者たちを育てる国際大学の誕生という強い願いが日米双方に生まれて、軍需産業だった三鷹の中島飛行機研究所跡地に、平和を願う高等教育機関が生まれたのです。1953年の事でした。そしてそこでは、ロータリーの平和フェローが世界から集まり学ぶ大学院プログラムがスタートしました。現在ICUとロータリーの両方に関わらせていただくことができ幸いに思います。直接の被爆生存者が、少なくなる中、この核戦争がない世界がいかに尊いものであるかを後世に伝えなければなりません。  

(2024年10月17日)