ロック•民謡•チャンプルー🌺(村重盛紀 会員委員会委員長)
皆さまこんにちは。
本記事は2011年に某媒体のために執筆したものの、諸事情により媒体が無くなり、永らく眠っていたもので、この度晴れて陽の目を見ることができ嬉しく思っております。
私が建築設計を営んでいることから、建築の記事になります。以下、
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2006年、那覇国際通りにある國映館跡地を巡って、商業施設のコンペが催された(註1)。久しぶりの大型オープンコンペであり、かつ沖縄に建築をつくることのできる滅多とない機会であったことから、全国から300社以上の建築設計事務所が挙って応募した。二段階の厳しい審査を経て選び抜かれた建築家の西沢大良が、以下のように述べている。
“ 沖縄は日本最南東の島で、亜熱帯と温帯の境目にある。そのため、沖縄は自然豊かで美しく、特に空の青さと植生の強さは、沖縄を訪れた人の記憶に、一生留まるほどである。これに対して沖縄の建築は、記憶に留まるようなものがひとつもない。いわば沖縄では建築よりも自然の方が人びとの記憶に留められているのだが、これはわれわれ建築家にとって由々しき事態である ” (註2)
私も西沢の見解に同意する。圧倒的な自然のなかで、果たして建築はその存在を成し得るだろうか。沖縄の輝かしい太陽や気温、植物は容赦ない。大きな果実を実らせた木々や、色とりどりに咲き乱れる花々、豊富で新鮮な魚介類などは、厳しい気候の恩恵として、沖縄に豊潤さを与えている。自然の強い沖縄では、建築も自ずと力強くなくてはならない。繊細で華奢な構造や真白な空間とは対極の、無骨で強い建築が、この場所にはふさわしい。また、あるいは自然そのものを建築しなければならないだろう。

さて、名護市庁舎である。
1978年、國映館と同様に、300社以上が応募した全国公開コンペによって、Team Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)が設計者として選出された。彼らはこのコンペが行われる数年前から沖縄の風土・文化に惚れこみ、集落調査に訪れ、今帰仁村では中央公民館の設計を手がけるなど、沖縄での実績も持っていたわけだが、この選定について、主催者である市役所内に不満の声もあり、竣工までには相当な紆余曲折があったようだ(註3)。
占領・支配の歴史上、良いものは流用するという島民性とともに、もとより石造文化をもった沖縄には、米軍が持ち込んだコンクリートブロックを受け入れる素地があったため、安価で便利なものとして広く普及した。Team Zooは沖縄で独自の発展を遂げたこの材料と工法を見落とさなかった。緑とコンクリートブロックによって、沖縄の風土に見合った計画をしたのだ。計画された緑にも、もちろん意味がある。緑=エコといった図式はない。そもそもこの時代に、エコロジーや屋上緑化、壁面緑化といった言葉は一般化されていなかった。
シマ(村)の背後に控えるクサテの森、そこにウタキ(御嶽)がある。ウタキとは、ガジュマルなどの樹木に囲われた、香炉とイビ(霊石)以外に何もないからっぽの空間で、光が降り注ぎ、神が降臨、鎮座する場所である。Team Zooはこうした集落の構造を、庁舎の平面構成に用いた。名護市は市の中心が山である。市民に開かれるべき庁舎は、名護市内に多く見られる、“ウタキ”となる必要があった。そのために多くの緑を植樹する必要があったし、建築も、森そのものになる必要があった。決してウタキやアサギ(註4)の名だけを借りた、形骸化された話ではない。
設備面においては、海からの風を捕まえて室内の気温を調整するために、風洞(註5)を設けている。建築の奇天烈な形態が咲き乱れたポストモダンの時代に、自然エネルギーの活用、自然と建築との関係を表現した慧眼には、今さらながら感服するほかない。

本庁舎は、竣工後4年目の建築写真(註6)において、すでに遺跡のような存在感を放っている。現在では、外壁の花ブロック、柱の型枠ブロック表面が見事な経年変化を起こしているだけでなく、周囲のガジュマルは生命力を謳歌し、ブーゲンビリアは柱を這ってアサギテラス(註7)にしっかりと絡み付き、敷地のすべてを使って、自然と戯れている。築30年にして、歴史的遺構としか言いようのない風貌。このような現代建築を、ほかに見たことがあるだろうか。 アサギテラスとは、この建築を特徴づける、方形のルーバー屋根が架かった半屋外空間のことである。隙間があり、雨を防ぐことのないこの建築技法、ルーバーの意味を、私は名護市庁舎によって実感し、理解した。頭上からの太陽光を砕いて細かく分解することが、強烈な太陽のもとでどれほど効果的か、という意味である。



また、名護市庁舎のファサードを飾る、56体のシーサーも忘れてはならない。一つ一つが沖縄各地の、異なる作家の作品であるため、見ていて楽しい。 “具体的な図像を嫌う世界の戦後建築のなかで、シーサーを使って、しかし現代建築としてヘンでなかったのはナゴくらいだろう”と、建築史家であり建築家の藤森照信が述べる(註8)ように、近-現代の建築教育を受けた者にとって、通常、このような彫像(装飾)は建築に付いているだけで違和感があるはずだが、この建築には違和感がない。


海を通じて台湾や朝鮮、フィリピン、インドネシアなどの国々と広く交易してきた沖縄の地域文化と戦後アメリカ文化との挟間で、喜納昌吉(註9)は強烈な民謡ロックをかき鳴らした。私は初めて名護市庁舎を訪れた数年前、分野こそ違えど、喜納昌吉その人を想ったのだった。ハイサイおじさんが1976年、名護市庁舎が1978-1981年。互いに異なる風土、文化、形式をチャンプルー (混ぜ合わせ)し、新たな表現を生み出した。それはよそからの借り物を始原としながら、まぎれもなく沖縄の歌となり、建築となった。
建築ではなく、自然そのもの。
名護市庁舎は、市民に愛され、記憶され続けるウタキとして、この地にあり続けることだろう。
“私は建築がそれらを放棄してしまった状態を想定して、それでも成り立ちうる何かを探してみたい。
建物であることを放棄して、「ものそのもの」としても成り立ちうる何かですね ” (註10)。
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後述
テキスト内にややナイーブな見解がありますが、私も若かったということでご容赦ください。また現在は建替え要望もあるものの、災害時の危険性から庁舎敷地を高台へ移転し、新築するという方向性のようです。
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1736423.html
https://www.city.nago.okinawa.jp/articles/2024062800017/file_contents/houkokusyo.pdf
註
(1) KOKUEIKAN PROJECT:2006年に全国公募コンペとして実施された。設計案341点の中から、地元市民を集めた公開ヒアリングと専門家による審査を経て、西沢案が選出された。市場不況の煽りを受け、その後プロジェクトは一旦白紙となり(株式会社リサ・パートナーズへ確認済)、2011年現在、計画敷地は駐車場として利用されている。余談ではあるが、一応募者として、西沢による國映館案の実現を強く望む。きっと那覇における建築の金字塔になるはずだ。
(2) JA71 新建築社 16ページ
(3) INAX REPORT/185 より(抜粋)…市役所に行ってはいつも意見が対立してワンワンにやってたから、たぶん「象はもういいや」ぐらいの感じがあった… 象設計集団:樋口裕康
(4) ウタキと同じく、神と人々との交信の場として祭事や生活の中で自由に使われた場所。柱と方形屋根のみの、ミニマムな空間。
(5) 南側ファサードに設けられた穴のこと。風の道と呼ばれ、この自然通風システムは機械空調なしに建設された。現在は使用されておらず、エアコンが設置されているが、70年代末に空調を完備している建物は市内にほとんどなく、エアコンがコンペの要項に謳われていなかったことを勘案すれば、決して設計者の独り善がりではなかったことがわかる。屋上緑化を含め、むしろ自然エネルギー活用という、現代の風潮を先取りしていたともいえよう。
(6) ≪現代の建築家≫ 象設計集団 1987年 鹿島出版会
(7) パーゴラ。日影をつくるぶどう棚、藤棚のようなもの。
(8) 現代建築考20 LIVE ENERGY vo.90掲載 名護市庁舎:藤森照信
(9) 喜納昌吉:偶然にも本号に御本人へのインタビューが掲載されるようなので、詳しくはそちらを参照されたい。
(10) 象設計集団の中心的人物であり、名護市庁舎竣工の3年後に逝去した故・大竹康市の言葉 * ほか参考図書として、 [空間に恋して] 象設計集団 2004年 工作舎
会員委員会委員長(次年度会長エレクト) 村重盛紀